アートの力

【アートの力 Vol.1】ほんとうにアートに求めたいこと

先日、詩のソムリエという肩書きを持つ友人が、オンラインで「詩のワークショップ」を開催してくれました。その日のお題は、中秋の名月が空にぽっかり浮かんでいたのにちなみ、「満月」。連想する言葉を連ねて、俳句をつくってみたり、満月にちなんだ詩を節ごとに順番に音読して、感じることを話し合ってみたり。

詩を編んだり、味わったりすることは、とても内的な作業で、そこに他者は必要ないようにも思えます。けれど、10名ほどがオンラインで集まって、それぞれの居場所でくつろぎながら、一緒にその日の空気と詩を味わい、言葉を交わしてみると、ひとりぼっちでいては決して出会えなかったような、多様な感性が折り重なった詩のイメージの広がりを感じることができました。

「アートとは何か」と問われた時、実はすでにその概念は解体されているともいえ、美術史上に何か強固な「正解」があるわけではありません。この現代で、「アートとは何か」を考えるのであれば、自身で丁寧に定義づけていく必要があります。それは、物質なのか、行為なのか、美なのか、人間らしさなのか、はたまたそれ以外か。

私自身がアートに求めていることのひとつに、「人と人の間にあり、触媒になる力」があります。人と人の輪の中に、アートが置かれることで、自由な対話のフィールドが生まれて、カラフルな感性の絵の具が個々人からほとばしり、人と人との間に豊かなイメージが創出されていくようなこと。そう、まさに冒頭の詩のソムリエの友人が創り出した場で起きたことです。

一時期、日本でも対話型鑑賞教育なるものが流行していました。ただこの頃の日本では「対話」とは何かや、対話に含まれるべき余白がよく認識されていなかったために、鑑賞者同士での対話が一巡すると、引率している学芸員が、その作品の歴史や技法をペラペラとあたかもそれが鑑賞の「正解」であるように話し始め、せっかくイメージの羽を広げていた鑑賞者たちは、ひどくがっかりしたという話を聞くことがよくあります。機が熟していない時期に実施されていたがための不幸とでもいいましょうか。アートでの対話というと、このイメージがつきまとっていて、優良なケースが報告されずに、時代が足踏みしている感があります。

レッジョ・エミリア・アプローチを実践する麻布十番の 「美術共育実験室 Miro art lab」。思わずなにか作りたくなるような材料がいっぱい。

「鑑賞」という立場ではなく、「幼児教育」という視点で、アートの「人と人の間にあり、触媒になる力」を存分に活用している例が、イタリアにあります。世界最高峰の幼児教育とも謳われる、レッジョ・エミリア アプローチです。北イタリアの小都市が、レジスタンス運動をきっかけに始めた、まちぐるみの教育実践です。『発達156: なぜいまレッジョ・エミリアなのか』ミネルヴァ書房(https://amzn.to/2HY4Cq8 )に、娘ふたりをレッジョ・エミリアで育てた女性の感想が出てきます。

「レッジョの幼稚園や保育園に通ったからといってほかの人より絵が上手であるとかアーティストになりたいと言っているというわけでもありません。それは彼女たちの同級生を見ていても同じことで、将来なりたい職業や夢はさまざまです。それでも、レッジョ・エミリアに通った子どもたちは『美的感覚』に優れていると感心することはよくあります。また、なによりもけんかもよくするけれど、お互いの話をよく聞く、大人に対しても臆することなく自分の意見をきちんと言える子がとても多いです。」(P.78 うえむらかおり)

アートとは、人類が太古から続けてきた遊びのひとつとも言えます。遊びであるから自由であり、それぞれのやりたいことが実現していなければつまらないし、面白くなりません。レッジョ・エミリアの子供達は、アートで存分に遊びながら、自分の感性に向き合い、他者の意見や感覚に耳を澄まし、一緒になにかを創造していく経験を繰り返しているのです。結果として、子どもたちの輪の中にあるアート(創作行為)は、美的な感性を育て、誰かとちゃんと通じあうための機会を提供しているといえます。

 レッジョ・エミリアの子どもたちを見習って、つながっていたい大切な誰かとの間に、アートをそっと置いてみると、これまでにない対話の機会が生まれるのかもしれません。私はいつも、アートのそんな力に期待しています。

「美術共育実験室 Miro art lab」http://miro-art.org/